



『竹取物語』と「綴喜」ノート
―構想時のモデル地である可能性― 曽根誠一
『竹取物語』研究所竹取の翁
この原稿は、京田辺市郷土史会の機関紙第74輯『筒城』2002年3月30日発行に掲載したものです。
一 物語の舞台は大和国
『竹取物語』は、いうまでもなく虚構文学作品である。歴史的事実として、過去のある時点で実際に起こった出来事を記した作品ではない。だが、だからこそというべきか、物語は、過去の伝聞を表す助動詞「けり」を用いて、過去のある時点で実際に起こった出来事を語るのだという形式を騙って語られる。すなわち、虚構であるが故に、事実あった出来事を語るという形式を取って、真実性の賦与を試みるのである。
この具体例として、五人の求婚者の名前の問題を指摘できよう。夙に、加納諸平が『竹取物語考』(竹取物語古註釈大成 日本図書センター 昭和54)で指摘しているように、『竹取物語』の五人の求婚者名と壬申の乱の功臣とに名前の一致が見られることは、留意される。それを記せば、次の通りである。
石作皇子 ― 丹比島
庫持皇子 ― 藤原不比等
阿部御主人 ― 阿部御主人
大伴御行 ― 大伴御行
石上麻呂足 ― 石上麻呂
石作・庫持の両皇子の比定には、詳しい説明を必要とし、その詳細は、諸平『竹取物語考』について見ていただくことにして、今は、この二人の皇子の名前は、難題の品「仏の御石の鉢」との関連から「石作」となり、「蓬莱の珠の枝」が金銀・真珠からなる高価な品物であることから「庫持」となったという指摘に留めておきたい。
また、名前がほぼ一致する残る三人の求婚者名については、片桐洋一氏(『新編日本古典文学全集 竹取物語他』解説 小学館 94年)が指摘するように、『竹取物語』執筆時点までには没落してしまった氏族であり、彼らの難題入手の失敗過程を描くことによる政治批判に、如何ほどの意味があったのであろうか。むしろ、彼ら壬申の乱の功臣三名の名前は、『竹取物語』の時代設定が奈良時代であることを明確にするために、意図的に用いられたのであろう。
これ以外に、『竹取物語』の舞台設定が奈良であることを明確に証明するものとしては、次のような記述がある。
@名をば、讃岐の造となむいひける。(17頁、新編日本古典文学全集)
Aこの子いと大きになりぬれば、名を、三室戸齋部の秋田をよびて、つけさす。(19頁)
B…三年ばかり、大和の国十市の郡にある山寺に、賓頭盧の前なる鉢の、ひた黒に墨つきたるを取りて…。(25頁)
@は、かぐや姫の養父となる竹取の翁の名前であり、「讃岐」は、氏族名称か地名のいずれかということになる。本文的にも、紹巴奥書本では「さるき」(「さぬき」に同じ。「ぬ」は「る」に音訛する)、天理図書館武藤本では「さかき」とあって、分かれている。そこで、大和国にこの地名を捜すと、「広瀬郡散吉郷」(北葛城郡河合町)に想到する。ここには、讃岐神社(延喜式)もあり、ここを以て竹取の翁の居住地とするのが、従来の通説である。
Aは、かぐや姫の命名を「三室戸齋部の秋田」がしたというのだが、秋田の居住地「三室戸」については、新編日本古典文学全集本が指摘するように、『万葉集』九四番歌の「玉くしげ みもろの山の」について、「或本の歌に曰く、玉くしげ 三室戸山の」とあり、「ミムロトはミモロの在る所」(新編日本古典文学全集『万葉集』)の意とすると、「三室戸」も「みもろ」と同じことになり、三輪山を指すのであろう。
Bは、求婚者石作皇子が、かぐや姫には天竺に「仏の石の鉢」を取りに行くといって、実は「十市の郡」の小倉山に隠れていたというのである。偽物の「仏の石の鉢」を、その山寺から調達したというこの叙述で気になるのは、『竹取物語』の舞台が大和国であることは、既に明らかであると思われるのに、「大和の国十市の郡」と記していることである。物語の舞台が大和国であることを読者に意識させようとすれば、むしろ「大和の国」を省略して「十市の郡」とのみ記した方が、平安京に居住する読者には、効果的であったろう。それ故に、「大和の国」は、元来「十市の郡」(磯城郡の一部)の右に記された「傍注」であり、それが本文化した可能性が高いのではあるまいか。
以上、『竹取物語』中の地名乃至それに準ずる三例を通して、物語の舞台が大和国であることを述べた。これは、既に定説化していることであり、今後ともにこれが変わることはあるまい。しかしながら、次節で述べるように、『竹取物語』の登場人物名を検討する時、この問題については、もう少し別の角度から捉え直すことができるように思われるのである。
二 かぐや姫と讃岐の造と「筒木」(綴喜)
かぐや姫という名前が命名された理由は、月の都から追放された光り輝く姫君であることによるのであろうが、この名前の出典を最初に指摘したのは、契沖の『河社』(契沖全集第十四巻 岩波書店 74年)であり、次のようにある。
かくやひめの名は、古事記垂仁天皇段云、又娶大筒木垂根王之女迦具夜比賣、生御子袁邪弁王。これをかれる歟。
これを承けた田中大秀『竹取翁物語解』(竹取物語古註釈大成 日本図書センター 昭和54)は、更に、次のように記している。
さて「大筒木垂根王。讃岐垂根王。此二王之女五柱也」とある、此后も、其中の一柱なれば、もし其御伯父、讃岐垂根王などに思よりて、讃岐と云姓もあれば、此竹取翁を、さぬきの姓と為たるにもやあらむ。こは、ふと思よれゝば云なり。
この指摘は、野口元大氏校注の日本古典集成本『竹取物語』(新潮社 昭和54年)でも、次のように継承されている。
この系図を眺めていると、いろいろな連想に誘われる。事はただ「かぐや姫」という一名辞だけの問題ではないように思われてくるのである。まず、カグヤヒメの叔父の讃岐垂根王という名は右に見た「讃岐の造」と関係があるのではないか、また、大筒木垂根王の娘なら、竹の筒から生れるという想像と結びつきやすいのではないか、そして、その先祖は竹野媛なのである。(中略)
なお、ここの大筒木垂根王以下三人の名は、『日本書紀』の方には見られない。作者は『古事記』によって迦具夜比売の名に逢着したと考えるべきであろう。
この解釈は、雨海博洋氏訳注の旺文社文庫本『竹取物語』(80年)も、首肯している。
すなわち、かぐや姫と讃岐の造の名前が、『古事記』に基づいて命名されたと考えられる時、竹取の翁の家が構想の当初から広瀬郡散吉郷に設定されていたと考える蓋然性は、低くなるのではあるまいか。むしろ、讃岐垂根王の兄であり、迦具夜比売の父である大筒木垂根王の居住地である「大筒木」こそ、構想時点での讃岐の造の家のモデル地であった可能性が高いのではあるまいか。
「大筒木」の所在地については、『古事記』中巻・開化天皇条に「又其の母の弟袁祁都比売命に娶ひて生める子、山代の大筒木真若王」(新編日本古典文学全集本、原漢文)とあり、山城国であることが知られる。
また、石之日売が嫉妬に駆られて、奴理能美の家に滞在した時、口日売が歌った「山代の 筒木の宮に 物申す 吾が兄の君は 涙ぐましも」(古事記下巻)から、奴理能美の邸宅は皇后の滞在に相応しい立派なもので、仁徳天皇も後日、石之日売を訪ねて行幸したところであり、それが「筒木」、すなわち、山城国の「綴喜」にあったことが知られるのである。
この点、竹取の翁の家は、帝がかぐや姫の素顔を実見し、美麗であれば宮中に連れ帰ろうと意図して、御狩の行幸の途次、休憩に立ち寄った程の豪邸であった。『今昔物語集』巻三十一の竹取説話は、「居所ニ宮殿楼閣ヲ造リテ、ソレニ住ミ」「家ノ有様微妙ナルコト、王ノ宮ニ異ナラズ」と記している。竹取の翁の邸宅に匹敵するとも劣らない豪邸が、確かに存在したという点の類似性を以ていえば、翁邸の所在地に「筒木」は重なってくるのである。
同様の状況証拠を指摘すれば、帝は、翁邸にかぐや姫を実見しに行く口実として、御狩の行幸を提案する時、「みやつこまろが家は山もと近かなり」と発言する。「山もと」については、普通名詞と理解するのが通説で、塚原鉄雄氏(王朝の文学と方法 風間書房 昭和46年)は、「散吉」を北葛城郡馬見村に当てて、次のように述べておられる。
奈良盆地の西南に位置し、高田市からやや西寄の北方、直線距離にして約二三十町のところである。金剛山脈が葛下川を含む平地によって截断せられ…て、さらに東方に山地を形成する…が、その東南の山麓に接近する位置である。…竹取翁の住居を、ここ大和の散吉に推定することの妥当性を基礎づけるであろう。
こうした指摘の一方で、同様のことが「綴喜」についてもいえないのかといえば、『続日本紀』和銅四年条に「丁未。始置都亭駅。山背国相楽郡岡田駅。綴喜郡山本駅」とあって、当時既に「山本」という地名が存在したことが知られる。そうした地名が存することは、そこが山麓に位置する土地であることを意味しており、「筒木」もまた「山もと近かなり」という条件を満たす地域であることが知られるのである。
また、既に本田義憲氏「かぐや姫の家」(叙説 昭和54年)が詳述されているが、かぐや姫の故郷である「月」と関わりのある、「月神」を祀る式内社が山城国に三社あり、そのうちの「月読神社」「樺井月神社」の二社が綴喜郡に祀られている。そして、南山城地域で「月神信仰」が盛んであったことを、史料を博捜して述べておられる。こうしたことも、かぐや姫と竹取の翁の出会いが構想された地として、「綴喜」の方が相応しいことの傍証にはなるであろう。
以上、既に指摘されていることを主として整理しながら、竹取の翁「讃岐の造」の居住地は、翁と姫の命名の経緯から判断して、「綴喜」がモデル地であった可能性について、状況証拠を三点指摘してみた。これで、この問題は決着が付いたのではなく、論争のための土台が呈示出来たに過ぎない。
すべては、今後の状況証拠の積み上げ、換言すれば、古代における「綴喜」の位置と役割の解明にかかっているのであり、そのための契機となることを願って、大雑把なまとめを試みたに過ぎない。「ノート」と題した所以である。大方のご批正をいただけたら、幸いである
三 作者と『古事記』
尚、一点だけ、補記しておきたい。
それは、『竹取物語』の作者が、翁と姫の名前を『古事記』から引用した問題である。平安期において、正式の歴史書は『日本書紀』であり、『古事記』が参看されることはあまりなかったようである(『古事記』の注釈書である『古事記裏書』は、十四世紀の成立)。物語の作者層は、男性知識人であり、『竹取物語』の作者も、五人の求婚者に与えた難題や女仙伝の記述を踏まえた叙述から判断して、大学寮で学んだ人であることは疑いない。当時、史書としての『古事記』の位置付けが低かったことは、間違いないが、接触の場が全くなかったともいえまい。その辺りの状況が掴みにくいのだが、『古事記』が注目される契機となる出来事の一つに、「読日本紀」、すなわち『日本書紀』の講筵が考えられよう。これは、「先朝之故事」を学ぶために、公卿殿上人を対象として、嵯峨天皇の弘仁三(812)年よりおおよそ三十年ごとに、数年をかけて実施された。実施開始年は、承和十(843)年、元慶二(878)年、延喜四(904)年、承平六(936)年、康保二(965)年であり、『竹取物語』の推定成立時期である貞観年間(859)から延喜九(909)年を重ねると、元慶二(878)年、延喜四(904)年が重なってくる。時期的には、元慶二(878)年の方が妥当性が高いようにも思われるが、その頃大学寮に学んだ人物を調べると、紀長谷雄がいる。これまでも、『竹取物語』の作者に擬せられてきたが、貞観十八(876)年文章生、元慶五年文章得業生になっている。こうした長谷雄の経歴と、『日本書紀』の講筵を準備し、担当したのが、大学寮の構成員であることを勘案する時、準備に従事する過程で、補助史料として『古事記』を手にした可能性は、十分考えられてよいように思われるのであるが、如何であろうか。
(そね・せいいち/花園大学教授)
この原稿は、京田辺市郷土史会の機関紙第74輯『筒城』2002年3月30日発行に掲載したものです。
竹取物語シンポ「物語の発祥地」強調!
『竹取物語』発祥の地は "京田辺”その二
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